訪日客への接客を始めると、予約や決済の多言語対応には目が向きやすい一方で、災害時の案内は後回しになりがちです。
しかし、地震、火災、津波、大雨、台風は、商業施設、宿泊施設、体験施設、小売店の営業時間中にも起こります。日本語が分からない旅行者に、誰が、どの言葉で、どこへ案内するのか。ここを決めておくことが、安全対策の第一歩です。
本記事では、専門部署がない事業者でも始められる「多言語で避難を誘導するマニュアル」の作り方を、実務目線で整理します。
なお、こうした災害時の多言語対応を進めるにあたり、観光庁の補助金を活用して設備や資料を整える方法も併せてご検討ください。
1. なぜ今、多言語で避難を誘導する備えが必要なのか

2025年の年間訪日外客数は42,683,837人となり、年間で4,200万人を突破して過去最多を更新しました(訪日外客統計, 2025)。訪日客は大都市だけでなく、地方の宿泊施設、観光体験、商業施設、小売店にも広がっています。
つまり、災害時に施設内にいる人の中に、日本語を母語としない旅行者がいることは、もはや特別な場面ではありません。
総務省消防庁のガイドラインでは、日本語音声だけでは災害情報や避難誘導の内容を十分に理解できない人に配慮し、多言語化や文字・絵・地図などによる視覚化を行うことが望ましいと示されています。
ここで重要なのは、完璧な翻訳を目指すことではありません。災害時に必要なのは、短く、迷わず、同じ内容を、スタッフ全員が伝えられる状態を作ることです。
2. 多言語避難誘導マニュアルで決めるべき基本項目
多言語避難誘導マニュアルは、厚い冊子である必要はありません。むしろ現場では、すぐ開ける一枚資料、スタッフ用カード、掲示物、館内放送文のセットが役立ちます。
最初に決めるべき項目は、災害の種類、担当者、伝える文言、避難経路、集合場所、外部情報の確認先です。これらが曖昧なままだと、災害時にスタッフごとの判断が分かれます。
2-1. 対象にする災害を絞る
まずは、自社施設で起こりやすく、初動が必要な災害を選びます。多くの事業者では、火災、地震、津波の可能性がある地域の津波、大雨や台風による浸水、停電が対象になります。
海沿いの体験施設なら津波避難を優先し、地下売場を持つ小売店なら浸水時の上階誘導を重視します。宿泊施設では、夜間や早朝に少人数で対応する前提も欠かせません。
最初から全災害を網羅しようとすると、マニュアルが複雑になり使われなくなります。まずは「火災」と「地震」の二つを整え、地域特性に応じて追加する進め方が現実的です。
2-2. 使う言語は来訪実績から決める
多言語対応というと、十数言語を用意しなければならないと感じるかもしれません。実務では、日本語と英語を基本にし、自社の来訪実績に応じて中国語、韓国語、その他の言語を追加します。
総務省消防庁のガイドラインでも、原則として日本語と英語を用い、施設の実態に応じて中国語、韓国語などを追加できる考え方が示されています。
判断材料は、予約データ、免税手続きの国・地域、問い合わせ言語、口コミの言語、近隣観光案内所の傾向です。感覚ではなく、直近半年から一年の実績を見て決めます。
2-3. 役割分担を名前ではなくポジションで決める
災害時の役割は、特定のベテラン社員の名前で決めると、その人が不在のときに機能しません。受付、売場責任者、夜勤者、体験ガイド、バックヤード担当など、ポジションで決めます。
たとえば、受付は来館者への一次案内、売場責任者はフロア確認、バックヤード担当は非常口確認、責任者は消防や自治体情報の確認というように分けます。
小規模施設では一人が複数の役割を持つこともあります。その場合も「誰が全体判断をするか」「誰が外国語カードを持って案内するか」を明文化しておくことが大切です。
3. 現場で使える多言語案内文の作り方

災害時の多言語案内は、流ちょうな会話ではなく、行動を促す短文が中心です。長い説明や丁寧すぎる表現は、かえって理解を遅らせることがあります。
総務省消防庁のガイドラインでも、緊急時は複雑なことを伝えず、あやふやな言い方を避け、安全な場所への迅速な避難を優先する考え方が示されています。
3-1. 文言は四つの型に分ける
スタッフ用の文言は、危険を知らせる文、禁止する文、行動を促す文、安心させる文に分けると作りやすくなります。
危険を知らせる文:火災、地震、津波、浸水などが起きていることを伝える
禁止する文:エレベーターを使わない、戻らない、立ち止まらないことを伝える
行動を促す文:こちらへ来てください、階段を使ってください、外へ出てくださいと伝える
安心させる文:係員が案内します、安全な場所へ移動しますと伝える
この四つを日本語、英語、必要な言語でカード化します。スタッフが発音に自信を持てない場合は、無理に読み上げるより、カードを見せながら身振りで示す方が確実です。
3-2. 翻訳は自動翻訳だけで終わらせない
自動翻訳は下書きには便利ですが、防災用語では誤解が生じる可能性があります。特に「避難」「一時滞在施設」「津波避難場所」「高台」などは、地域や文脈で意味が変わります。
気象庁は、気象情報などで用いる用語を英語、中国語、韓国語、スペイン語、ポルトガル語、インドネシア語、ベトナム語など14言語に翻訳した多言語辞書データを提供し、2026年3月にも更新しています。防災用語を確認する際は、気象庁の「多言語辞書データ」を参照するとよいでしょう。
最終確認は、可能であれば対象言語のネイティブ、地域の国際交流協会、観光案内所、翻訳会社に依頼します。短い文ほど、直訳ではなく「その場で行動できる表現」になっているかを見てもらいます。
3-3. 音声、掲示、カードの内容をそろえる
館内放送、デジタルサイネージ、紙の掲示、スタッフカードで内容が違うと、訪日客は混乱します。マニュアルでは、同じ日本語原文から各媒体へ展開するルールを作ります。
たとえば、館内放送で「階段で一階へ」と言い、スタッフカードで「外へ出て」と示すと、どちらが正しいのか分かりません。避難先、移動方向、禁止事項は必ずそろえます。
更新時も注意が必要です。避難経路の工事、売場改装、客室配置の変更があった場合は、掲示だけでなく、翻訳文、カード、訓練シナリオまで同時に見直します。
4. 事前準備で整えるツールと掲示
多言語避難誘導マニュアルは、紙に書いて保管するだけでは機能しません。災害時に電源や通信が不安定になることも想定し、紙とデジタルの両方で準備します。
4-1. まず作るべき三つのツール
最初に作るべきものは、スタッフ用の避難誘導カード、来訪者向けの避難案内掲示、責任者用の確認シートです。
スタッフ用カードには、短い多言語文、ピクトグラム、矢印、身振りの例を入れます。首から下げる、レジ横に置く、バックヤード入口に貼るなど、すぐ使える場所に配置します。
来訪者向け掲示には、非常口、階段、集合場所、エレベーター使用禁止、津波時の高台方向などを入れます。細かい説明より、地図、矢印、色分けを優先します。
責任者用の確認シートには、安否確認、負傷者対応、消防への通報、近隣避難場所、自治体情報、交通情報の確認先を書きます。停電時に使えるよう紙でも保管します。
4-2. 公式ツールを組み込む
観光庁は、訪日外国人旅行者向け災害時情報提供アプリ「Safety tips」を紹介しています。同アプリは緊急地震速報、津波警報、気象特別警報などをプッシュ通知し、対応フローチャートやコミュニケーションカードも掲載しています。対応言語は15言語です。
また、観光庁の「Safety Information Card」は、災害時に役立つ情報をまとめたリーフレットで、地方自治体、企業、個人を問わず利用できます。施設のチェックイン資料、体験受付、免税カウンターなどで案内しやすいツールです。
日本政府観光局は、事故、病気、災害など非常時のサポートを含む「Japan Visitor Hotline」を24時間、英語、中国語、韓国語、日本語で案内しています。自社で説明しきれない場合の補助線として、スタッフ用シートに記載しておくと安心です。
5. 訓練とトラブル対応でマニュアルを使える状態にする

マニュアルは、作った時点ではまだ完成していません。スタッフが実際に使い、詰まった部分を直して初めて、災害時に使える備えになります。
5-1. 月一回の短時間訓練から始める
大がかりな防災訓練を最初から企画する必要はありません。まずは月一回、開店前や交代時間に10分だけ、カードを持って避難方向を案内する練習を行います。
訓練では、スタッフが外国語を読めるかよりも、迷わずカードを出せるか、非常口を指差せるか、エレベーター前で止められるかを確認します。
宿泊施設なら夜間想定、体験施設なら屋外活動中、小売店ならレジ混雑時、商業施設なら複数フロア同時対応など、実際に起こりそうな場面を選びます。
5-2. 伝わらないときの対処を決める
訪日客が案内を理解できない、パニックで動けない、家族とはぐれた、荷物を取りに戻ろうとする。こうした場面は、事前に想定しておく必要があります。
伝わらないときは、言葉を増やすより、短い文、指差し、矢印、実際に歩いて見せる動作に切り替えます。翻訳アプリに頼りすぎると、通信不良や誤訳で時間を失うことがあります。
荷物を取りに戻ろうとする人には、戻らないことを示すカードを見せ、スタッフが進行方向に立って誘導します。家族とはぐれた場合は、まず避難を優先し、集合場所で確認する運用にします。
5-3. 事故後の記録と改善を仕組みにする
実際に地震や警報、火災報知器の作動があった後は、記憶が新しいうちに記録を残します。何時に何が起き、誰が何を案内し、訪日客がどこで迷ったかを書きます。
記録は責任追及のためではなく、次回の改善のために使います。掲示の位置が低かった、英語カードがバックヤードにしかなかった、夜勤者が集合場所を知らなかったなど、具体的に直します。
災害対応は一度作って終わりではありません。改装、スタッフ入れ替え、客層の変化、自治体の避難場所変更に合わせて、少なくとも年一回は見直します。
6. まず30日で整える実務ステップ
最初の30日で目指すのは、完璧な防災体制ではなく、最低限の避難誘導が多言語でできる状態です。以下の順で進めると、現場の負担を抑えながら形にできます。
初週は、施設内の非常口、階段、集合場所、危険箇所を確認します。同時に、直近の訪日客の言語傾向を見て、日本語と英語に加える言語を決めます。
二週目は、火災と地震の短文を作ります。危険、禁止、誘導、安心の四分類で、日本語原文を先に固め、翻訳確認を行います。公式用語は気象庁の多言語辞書データを確認します。
三週目は、スタッフカード、掲示、責任者用シートを作り、受付、レジ、フロント、バックヤード、体験出発場所に配置します。観光庁のSafety tipsとSafety Information Cardも案内導線に入れます。
四週目は、10分訓練を実施します。訓練後に「カードを取り出せたか」「避難経路を指差せたか」「外国語が読めないスタッフでも使えたか」を確認し、すぐ修正します。
多言語で避難を誘導するマニュアルは、インバウンド対応の中でも後回しにされやすい領域です。しかし、災害時に安全に案内できる施設は、訪日客にとっても、地域にとっても信頼される受け入れ先になります。
まずは一枚のカード、一つの掲示、一回の訓練からで十分です。今日、自社の非常口を訪日客目線で歩いてみることが、最初の一歩になります。
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